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INFORMATION6を書き終えた日、娘が学校で「月光の夏」という映画を観て帰って来ました。この映画を私は観てはいないけれど、内容はその当時紹介した雑誌などから、知っていました。 今の娘と同じ年頃の青年達が、戦争の犠牲になり命を奪われる物語です。 娘は、喉も胸も熱くなり、涙が止まらなかったそうです。 「お国のために、命を捧げる。」なんて、今の世の中では、考えられないことです。 私の祖父は、長崎の原爆の被爆者です。当時48歳でした。 長崎駅の構内で被爆したそうです。その日、駅は人で溢れ、となりで喋る若い女学生の甲高い声がとてもうるさく感じたそうです。突然、周りが明るくなり、次に気付いた時は、周りの人は全員倒れ、駅は静まりかえっていたそうです。倒れている人達の中から、ポツリポツリと自分と同じように起き上がる人がいたそうです。 1週間かけて祖父は、佐世保の家まで歩いてたどり着きました。道は分からないので線路に沿って歩いたそうです。途中、死にかけた血だらけの人や、体が半分溶けたような人に脚を摑まれ、その手を振り払い、踏みつけながら歩いたそうです。川には、死体がイカダのように流れていたそうです。 暫くして、戦争は終結。日本は敗戦。祖父は命こそは失わなかったものの、仕事も健康な体も失ってしまいました。耳は、殆んど聞こえなくなったということです。 戦後、祖父は小さい漁船を買い、漁師になりました。私の記憶に残っている祖父は,それからずっと後です。 私は小学3年生くらいまで、夏休みの殆んどを、長崎の祖父の家で過ごしました。 私は、祖父と会話をした記憶がありません。耳が聞こえないし、九州弁がきついので、会話にならないと、初めから諦めていました。祖父の声を聞くのは、私に用事を言いつける時ぐらいです。恐ろしい量のマキ運び、ニワトリの世話、小豆のサヤを叩いたり、片道5キロはある町への買い物。自転車はありませんでした。 私の記憶に残っている祖父は、いつも何か仕事をしています。 晴れた日は、畑に行き、昼寝をして夜は漁に出ます。 雨の日は漁で使う網や仕掛けの手入れ。 75歳で漁船を新調した時、祖父の生きることへの、旺盛な気力を感じました。 幼かった私は、祖父は生活のために働いているのだと思っていました。でも、今考えると被爆者として受け取る年金はきっと生活するのに十分あった筈です。 祖父は、85歳で亡くなる1週間前まで、漁をしていました。 「祖父は何のために働いていたのだろう?」そんなことをよく考えた時期がありました。 自営業の私に、定年ありません。1年ほど前まで「いつまで働かないとアカンのかなぁ~」と、よく思いました。でも最近「死ぬまで働けたらいいのになぁ~」と思うようになりました。 祖父も、そう思っていたのかもしれません。 死の淵を彷徨った祖父は、生きていること、体が動くことの喜びを働くことから感じていたのだと思います。 戦争で大きく人生を狂わされた祖父。自分で築いた会社を失い、被爆し。普通なら、自暴自棄になり、だらしなく、時間つぶしの余生で終わっても仕方がないと思います。でも、私の記憶に残っている祖父は、威厳と活気に満ち溢れています。 「死ぬまで、元気で働く。」そんな、人生が良いなぁ。と最近思うようになりました。 祖父のことを、思い出す時、不思議なことがあります。祖母も母も「じぃちゃんは、耳が聞こえないから。」といつも言っていたので、そうだと思い込んでいました。でも、私が母に激しく口答えをした時、顔が腫れ上がるほど、叩かれたことがあります。 祖父が漁に行くため家を出た後、タバコを忘れているのに気づき、必死で追いかけ、遠くに見える祖父の後ろ姿に「じぃちゃん、タバコ。」と叫んだ時、振り向き、私が追いつくのを待っていました。 祖父の耳は、本当は聞こえていたのかもしれません。 私の子供の頃の写真に、オニユリの柄の浴衣をているものがあります。その可愛くない浴衣は、「オニユリのように、何処にでも根を張り、強くなれ。」と祖父が、私のために買って来たそうです。 祖父は、今の私をどう見ているでしょう? ![]() 第二次世界大戦末期の1945年、米国サンフランシスコ。国連発足に向け会議場に集まった50ヶ国の政府代表達は、輝くようなバラたちに迎えられた。 直径15センチ、淡いピンクが混じった「巨大輪」。加えて、戦争終結の願いを込めたネーミング。20世紀を代表する名花はこうして国際舞台に登場し、世界のベストセラーローズにのぼり詰める。 「ピース」・・・誰が作り、名づけたのでしょうか? 「ピース」はサンフランシスコ会議の6年前、フランスのリヨンで誕生しました。ナチスドイツがフランスに攻め入り、第二次世界大戦が始まった年です。 育種者はフランシス・メイアン(当時27歳 1912~1958)。自信作だったのでしょう。当時の多くの育種者と同じように、母親に捧げ「マダム・アントワーヌ・メイアン」と名づけて、戦時下売り出しました。 三年後の秋、ドイツ軍が迫る中、「米国にも広めたい。」と彼は芽接用の小枝数本を友人の販売業者ロバート・バイル氏に送りました。郵便網は寸断されていたので、帰国する知り合いの米国領事に託しました。ドイツによる南フランス占領の前日のことです。 なんとか米国に届いた小枝はバイル氏によって増やされ、1945年4月末カリフォルニア州バサデナでの「太平洋バラ協会展」で新品種として登場。話題をさらいます。ちょうどその時、会場に「ベルリン陥落。休戦へ。」のニュースが届きました。「ピース」・・・それがこのバラの運命だったかのように名前が決まりました。 「ピース」はその後も1951年のサンフランシスコ対日講和条約調印の席上に飾るなど、歴史的場面に立会い、バラそのものに「平和の象徴」のイメージを植えつけました。 「ピース」には第一の名「マダム・アントワーム・メイアン」の他にも、二つの名前があります。 ドイツでは「グロリア・ディ」(栄光の賛歌)。イタリアでは「ジョイア」(歓喜)。 敗戦国では、勝戦国が付けた名前では売りにくいと、現地の販売会社が別の名を考えたそうです。 「ピース」と名づけたこの花が人々の心を動かし、世界にかつて無い平和がもたらされますように 米国バラ協会 巨大輪の始祖である「ピース」は、これまでに世界中で5000万本以上が販売されました。交配種としても優秀で、世界中の作出家たちが品種改良に利用し、その子孫は「ピースファミリー」と呼ばれる名花群を形成しています。
PEACE PEACE PEACE INFORMATION 5 「おかげさまで5周年」・・・おかげさまで5周年を迎えることができました。 「あっ」と言う間の5年間でした。何をやっても長続きした例の無い私が5年も、店を続けられたのは、お客様、友達、娘のおかげです。 何度も逃げ出したくなったことがあります。その度に、「店をやめたら、この人(お客様)に会えなくなる。」と思い、私が店を持てたことを喜んでくれた友達に、また心配をかけてしまうと思いました。小学5年生という難しい時期に、慣れた生活環境を捨て、不安一杯で、私に連れられて、ここに引越して来た娘のために・・・私一人の気持ちだけでは、続けられなかったと思います。 私は、娘が小さい頃、自分の時間や、やりたいことに制約があることに、とてもストレスを感じていました。今から思うと、子育てを楽しめなかったことは、とても勿体ないことです。その頃、私達は休日になるとよく二月堂に出かけました。季節・時間・天候を問わず、二月堂からの景観はすばらしいのです。 娘が小学校入学を控えた春、満開の桜を期待して、二月堂に行きました。奈良公園から二月堂まで、どの桜も満開でした。帰り道、娘がこんなことを言いました。 娘 「桜の花は、きれいやなぁ」 私 「花は、どの花もみんなきれいで。」 娘 「ちがう、桜の花は他の花よりずっときれいや。なんでやろ?」 私 「・・・・・桜は、花が散った後、暑いのを我慢して、寒いのも我慢して、 いっぱい我慢するから、きれいな花を咲かせることができるんとちがうかなぁ・・・」 娘 「そしたら、ママといしょやなぁ。このちゃん(娘)早く大きくなるから、もうちょっと我慢してな。」 「はっ」としました。一番我慢していたのは娘だったのです。 今年の春、娘の「15の春」は「桜咲く」・・・まさに満開でした。 私は、幼かった娘の我慢と期待に応えた花を、いつになったら咲かせることができるでしょうか。
ピース ピース ピース INFORMATION お菓子作りのきっかけ・・・小学校6年生の時、友達の誕生日会に呼んでもらいました。「お母ちゃんがケーキを作るから来てや。」と...家でケーキを作ることができるなんて、その頃の私には想像のできないことでした。ケーキ店のショーケースに並ぶ[モンブラン]を見て、「やきそばの載ったケーキなんて、誰が買うんやろ?」と小学低学年まで思っていたぐらい、ケーキなどと言うものには、縁の無い環境でした。 いざ、誕生日会へ...大きなテーブルにご馳走がびっしりと並んでいました。しかし、一番のお目当てのケーキは、なんとも地味なマーブルケーキだったのです。天まで届くようなクリームの山を想像していた私は、ガッカリ...しかし、食べてみるとその味は、例えようが無い美味しさだったのです。 その後もその友達の家には、度々遊びに行き、おばちゃんの手料理をご馳走になりました。「これさえあれば、なんでもできるのよ。鶏の脚も焼けるのよ。」おばちゃんは、オーブンを指差してそう言いました。まさに、魔法の扉でした。「私も欲しい。」そう思いながら、家にあるオーブントースターで、ミックス粉を使ってクッキーを焼いたりしていました。 高校生になり、アルバイトして念願のガスオーブンを買いました。今から25年程前のことです。(当時9万円)暫くは熱中したものの、冷めたり、離れたりしながら、卒業後はお菓子とは無縁の仕事に就きました。 子供を持ち、日々追い立てられるような生活を送りながらも、お菓子とパンを作ることが、徐々に私の生活に組み込まれていきました。 数年前、定年間近のおばちゃんから「定年したら、パン作りを教えて欲しいのよ。」と、言われました。私が、おばちゃんに教えるなんて...この人も、私の「いつまで経っても追いつけない人」です。 お子様連れのお客さまから、「この子、ここのパンが大好きなんですよ。」とか、言っていただいた時は、最高にうれしいです。私が、あの日のマーブルケーキから受けた衝撃には、程遠いだろうけど...
ピース ピース ピース INFORMATION 私に、コーヒー豆の焙煎を教えてくれた人...当時、おじさんは70歳でした。私は、「70歳まで現役で働くなんてすごいなぁ…」と思っていました。でも、おじさんは、80歳を過ぎた今も現役で毎日働いています。 長身で足が長く、ハンチング帽を被り、赤のチェックのシャツとチノパン、パイプを銜え、ロッキングチェアーに座り...なんとも絵になるのです。 私は、この店を始めてもうすぐ4年ですが、毎日店を開けることのが、これほど大変だとは思いませんでした。肉体的な面、精神的な面...暇な日が続いた日は、店を開けることが怖くなります。おじさんはもう50年間も店を開け続けています。おじさんが、コーヒー豆の焙煎を始めた頃は今のように、コーヒーを飲む習慣はあまりなかった頃です。「コーヒーよりうどんの方がいい。」とよく言われたそうです。その頃から50年もおじさんは毎日店を開け続けています。「すごい」の一言に尽きます。 毎日店を開けることもさる事ながら、50年間も同じ仕事に情熱を持ち続けることもすごい事です。ある時、おじさんが大声で「こ、こ、こ、こ、これ見てみっ!」と、興奮しながら私を呼ぶのです。(おじさんは、興奮すると吃音気味になるのです。)おじさんが握った掌を開くとその中にはコーヒー豆があったのですが、右手と左手の豆が微妙に違うのです。「こ、こ、こっちの方が膨らみがいいやろ!」 おじさんは、40年経ってもより良く豆を煎る方法を模索していました。私は、40年、50年と毎日店を開け続け、情熱を持ち続けることができるだろうか?...ついつい惰性になりがちな時があります。 私は最近、焙煎をしながら「こんな時、おじさんはどうするやろ?」「なんで、もっとちゃんと教えてもらっとかなかったんやろ?」と思うことがよくあります。でも、あの頃きいてもきっと解らなかったのだと思います。今、ほんの少しだけおじさんに近づけたから、いろんなことが解るようになり、焙煎の難しさを感じているのだと思います。 いつまでも元気で、焙煎をして、店を開け続けて欲しい。いつまで経っても追いつけない人がいるから、私も毎日店を開けることができるのです。
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