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カテゴリ:INFORMATION(伝えたいこと)( 12 )

PEACE PEACE PEACE 7 加筆

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被爆の記憶を次世代につなぐために新たに手記を募集されました。今回は被爆者本人だけでなく、遺族の目線での被爆者の被爆後の人生についてでも可能だということでしたので、約10年前の2009年6月に「PEACE PEACE PEACE 7」として書いた祖父の思い出を加筆訂正し、提出させていただきました。この手記を書き祖父のことを思い出し、10年前には気付かなかった祖父の気持ちに気付けたような気がします。この機会を与えてくださった方々、文章の添削してくださった方に心より感謝いたします。


PEACE PEACE PEACE6』を書き終えた日、娘が学校で「月光の夏」という映画を観て帰って来ました。この映画を私は観ていませんが、内容は紹介した雑誌などから知っていました。

 娘と同じ年頃の青年達が、戦争の犠牲になり命を奪われる物語です。娘は喉も胸も熱くなり、涙が止まらなかったそうです。「お国のために命を捧げる。」なんて、今の世の中では考えられないことです。

祖父の思い出

私の祖父は長崎原爆の被爆者です(当時46才)。祖父は長崎県佐世保市に住んでいましたので、奈良に住んでいた私が祖父に会うのは、冬休み夏休み等の帰省の時だけでした。祖父については母から「怖い人」と叩き込まれていましたし、被爆により殆どの聴力を失っていましたので、私が必要なこと以外を話しかけることはありませんでした。祖父もまた、私に対して話し掛けることは滅多にありませんでした。祖父の声を聞くのは会話というより、声を発するという表現が合っているように思います。ですから、これから私が書くことは、母から聞いたこと、また私の子供の頃の断片的な記憶が、歳を重ねて行く中で形になったことです。

私の夏休みの帰省に合わせて、祖父は飼っているチャボの卵を取らずに親鳥に抱かせ、雛を私に見せようと計画を立ててくれるのですが、そのタイミングが一度として合った試しがなく、私はいつも中雛となった雛に激しく攻撃されるのです。そのうち小屋が手狭になり、若鶏用に新しい小屋を作るのですが、大雑把な性格と不器用さのせいで、新しい小屋に移した途端に若鶏たちは柵の間をすり抜け、裏山へと逃げて行くのでした。

私は、朝起きて山を背に海を眺めながら、外にある水道で洗面をします。内海に漁船が入って来るのを見つけると船着き場までの一本道を走ります。祖父は一斗缶を半分に切ったバケツを私に手渡します。その中には市場に卸さなかった小さい魚が入っているのです。そして、それがその日の御飯のおかずになるのです。

祖父は子供の頃、小学校に行かせてもらうことができず、家の手伝いの空いた時間を見つけて、墓地に行き墓石に字を書き、字を覚えたそうです。それでも、小学6年生になると下級生に授業をするまでになっていたそうです。また大型船舶運転士、機関士の免許を持っていたこともあり、祖父は一代で海運会社を興しました。母から子供の頃、家の中は常に20人近い従業員が寝泊まりしていたと聞かされたことがあります。祖父は戦争には行かず、会社の船を物納していました。長崎県戦時船舶徴用船という記録に今もその名前が記録されています。 藤田峯太郎1153トン。

祖父は仕事で下関にいるとき、広島に原爆が投下され、次は長崎に投下されるという噂を聞き、家族の住む長崎県佐世保市に戻る途中、長崎駅の構内で被爆しました。その日、駅は人で溢れ、隣で喋る女学生の甲高い声がとてもうるさく感じたそうです。その時は突然周りが明るくなり、咄嗟に目の前にあった机の下に潜ったそうです。次に気付いた時は、周りの人は全員倒れ、駅は静まり返っていて、倒れている人達の中から、ポツポツと自分と同じように起き上がる人がいたそうです。

その後は、佐世保の自宅まで歩いて1週間かかり帰ったそうです。道は分からないので線路に沿って歩いたそうです。途中、死にかけた血だらけの人や、体が半分溶けたような人に脚を掴まれ、その手を振り払い、踏みつけながら歩いたそうです。川には死体が筏のように流れていたそうです。血だらけになり自宅にたどり着いた祖父は、1週間近く意識が無く高熱を出し眠り続けたそうです。離れに隔離し、祖父の寝る布団の周りに畳みを立てて囲み、祖母だけがその部屋に出入りし、水を飲ませたそうです。その時、祖母は祖父の髪を引っ張り、抜けるかどうかを確かめたそうです。髪が抜けると死んでしまうという噂が流れていたからです。

暫くして、戦争は終結。日本は敗戦。祖父は命こそは失わなかったものの、仕事も健康な体も失ってしまいました。でも家族のために働かなくてはなりません。祖父は漁師になりました。小学生だった私の母を連れ、漁の網、仕掛けの作り方を習いに行ったそうです。自分で会社を興し、たくさんの人を使っていた祖父が人に頭を下げ、教えを請うのはどんなに辛かっただろうかと思います。

私の記憶に残っている祖父はそれからずっと後のことです。祖父はいつも仕事をしていました。晴れた日は畑に行き昼寝をして、夜は漁に出ます。雨の日は漁で使う網や仕掛けの手入れ。大きなヤツデのような手を今も覚えています。

祖父は85才で亡くなる1週間前まで漁をしていました。正月の三ヶ日が過ぎるのを待ち時化の海に出たのです。そして、座礁し意識を失い、救助され、病院に搬送され、意識が戻らないまま、111日に亡くなりました。確か、前年も真冬に漁に出て、同じような目に遭い入院したと聞いた覚えがあります。どうして祖父は真冬の時化の海に出たのだろう?大人になってから正月の三ヶ日が過ぎた頃になると、いつもそれを考えてきました。

私は50才を過ぎ、若い頃からの無理が祟り、突き放すことのできない病を持つ身になりました。自営業で拘束時間が長く、その割りには実入りが少ないのです。このくらいの収入なら他に仕事はあると思うのです。でも、辞められないのです。どんなにしんどくても、労力と収入が見合わなくても、パンを作る、珈琲豆を煎る、珈琲を淹れるということを辞められないのです。自分のイメージ通りのパンができた時、お客様から「美味しい。」という一言を貰った時の全身が熱くなるような痺れ、心のときめきが私をこの仕事に縛り付け離さないのです。

今年は例年より1日早く新年は4日から営業を開始しました。有り難いことにたくさんのお客様に来ていただきました。仕事の合間に祖父のことを思い出しました。「今日はじいちゃんが海に出た日。」

何となく祖父の気持ちが分かったような気がしました。祖父は漁がしたかったのです。楽しみだったのです。自分の読み当たるかどうか?自分のイメージ通りの漁ができるかどうか?きっと頭の中はそれしか無かったのです。

戦争によって人生を狂わされた祖父。自分で築いた会社と健康な体を失った祖父。自暴自棄になり、だらしなく時間潰しの人生で終わっても仕方ないと思います。でも、私の記憶に残っている祖父は、威厳と活気に満ち溢れています。75才で漁船を新調した時、生きることへの旺盛な気力を感じました。祖父は日々を、そして人生を楽しんでいたのです。

 祖父のことを思い出す時、不思議なコトがあります。祖母も母も「じいちゃんは、耳が聞こえないから。」といつも言っていたので、そうだと思い込んでいました。でも、私が母に激しく口答えをした時、顔が腫れ上がるほど叩かれたことがあります。祖父が漁に行くために家を出た後、タバコを忘れているのに気付き必死で追い掛け、遠くに見える祖父の後姿に「じいちゃん、タバコ。」と叫んだ時、振り向き私が追い付くのを待っていました。祖父の耳は、本当は聞こえていたのかもしれません。

 私の子供の頃の写真に、オニユリの柄の浴衣を着て写っているものがあります。その可愛くない浴衣は、「オニユリのように、何処にでも根を張り、強くなれ。」と祖父が私のめに買ってきたそうです。

祖父は今の私をどのように見ているでしょうか。


by peace3126 | 2019-02-06 12:14 | INFORMATION(伝えたいこと)

PEACE PEACE PEACE 11

PEACE PEACE PEACE 10を書いてから、なんと4年も経っていました。「10」を書き終えた時は、もう書くネタ は無い。と思ったのですが、人間、生きていたら、書くことができますね。
ちょっと、長いですが、よろしくお付き合いください。
では・・・・・

昨年12月”PEACE PEACE PEACE"は12周年を迎えることができました。
そして、この春、娘が大学を卒業し社会人として一歩を踏み出し、1966年生まれの私は、きりのよい50歳になりました。
偶然にも私の50歳の誕生日に、娘は私の本を飛び立って行ったのです。
バス停で娘を見送る時、涙が出ました。

4年前に大学入学を機に家から出した時は、仕送りのことで頭がいっぱいで、寂しいなんて全く感じませんでした。「この4年間を何とかして、乗り切らなければ!」
既に離れて暮らして4年。いつの頃からか娘はこの家を実家と呼び、我が家ではなくなっていました。
別々に暮らすことが当たり前。娘が東京に行っても、私の生活は何も変わらないのです。
気が付けば涙が滲み、心に穴が開いているのがわかります。
「なんでやろ?」4年も前から別々に暮らしているのに、今更寂しくなるなんて。
東京が神戸と違い遠いからだろうか?自分の気持ちが自分でわかりません。何日も何日も、何度の何度も考えました。

そしてたぶん、これだろうと云う答えに行き当たりました。
私は娘に必要とされていることが、生き甲斐だったのです。私は娘のために生きていたのです。娘に生かされていたのです。娘の存在が私を生かしていたのです。
娘を産んでからの23年間、私は娘を育て、娘は私を支えていたのです。
娘が社会人となり、自立したことで、私を必要としなくなった。23年間の関係は変わってしまったのです。これは、親としての責任を果たし、喜びではあるけれど、一方でとても寂しいことです。私には、なかなか受け入れられず、理解できず、自分の日常、自分の価値がとても希薄になったような気がしました。でも、慣れなくてはいけません。無理をするのではなく、我慢をするのではなく、娘の自立を「喜び半分、寂しさ半分」ではなく「喜びでいっぱい!」と思えるようにならねば、なりたいと思います。
情けなく、つまらない親心が、前途ある娘の後ろ髪を引くことがあってはなりません。


この店を始める時に最初に決めたことは「人は雇わない、商品は全て自家製。」この2つです。
自信の無いモノで勝負しても負ける。メニューは少なくても、自信の有るモノだけで勝負しよう。
モーニングサービス、ランチサービスが無いことについて、たびたびお客さんから苦言をいただき、また、それが無いために暇な日があります。でも、自分を曲げられず葛藤し続けた12年間です。                                      
私は娘に話しながら、自分に言い聞かせます。「所詮人間。あれやこれやとできるはずがない。何か一つ、得意なモノがあれば、生きていける。」と。
私の考え方がこんなふうだから、私達親子の生活は世間から比べると、経済的には豊かではなく、物質的な辛抱は当たり前でした。と言うより、当たり前過ぎて辛抱しているという感覚も無かったように思います。
小学6年生で修学旅行があり、あまりにも下着がボロボロなので、新しい物を買い揃えました。娘は大喜びで、買い物袋から出して、床に並べ始めました。そして、パンツを両手で持ち、自分の顔の前で引っ張り、こう言いました。「ママ、パンツって伸びるねんなぁ~」
娘のパンツは保育園の時に買ったまま、娘と共に大きくなり、メリヤス生地がガーゼのように生地の目が粗くなっていました。お尻の位置には「ぞうぐみ このり」と黒いマジックで書かれた文字が薄らと残っていました。
「お金が無いことは貧しいのではない。お金が無いことを貧しいと思う心が貧しいのだ。」
「大きな夢と強い心が有れば、どんな困難も乗り越えられる。」辛くて潰れそうな時、繰り返したこの二つの台詞。痩せ我慢か信念か、頭の中でせめぎ合っていました。

そして、この春、娘はジャーナリストになる夢を叶え、私の夢も叶いました。私の23年間の夢は娘が夢を叶えることでした。

バスを待つバス停での僅かな時間の立ち話。娘は私にこう言いました。「私、ママと同じ仕事のやり方しようと思う。」
私は珈琲屋、娘は新聞記者。全く職種が違います。私が「どういうこと?」と聞き返すと、娘は『「ママ、いつも言ってるやん。何か一つ、誰にも負けへんモノを見つけたら、生きていける。」って。コレ、書かせたら、誰にも負けへん!っていうモノ絶対見つけるわ。』

私達親子は、これから更に離れて暮らすことになるでしょう。どんなに遠く離れても、いつもお互いを意識して、これからは良きライバルとして、それぞれの道を進もうと思います。
     もっともっと美味しくなるはず!
     もっと知りたい。もっと伝えたい!

                                  2016年6月
by peace3126 | 2016-06-23 16:04 | INFORMATION(伝えたいこと)

PEACE PEACE PEACE 10

夏ごろから書き出して、放ったらかしになっていた「10」。
「10」となると妙に気構えてしまい、続きを書けないでいました。
2〜3日前、お客さんから「楽しみにしているのに」と言っていただき、「よっしゃ〜!」と思い書き出しました。
今回はちょっと長いです。

店にもプリントしたものがあります。
もしよろしければ、お持ち帰りください。
12月6日で9周年を過ぎ、10年目に入ります。
これからも、この至らない私とお付き合いください。


この春、娘が1年間の浪人生活を経て大学生になり家を出て行きました。
苦しかった1年は神様が私にくれた「娘と暮らすオマケの1年だったのでは。」と今は思っています。
娘が私と離れて生活できるまでに成長したことを、私は自分の人生の一番の大仕事を終えたと思っています。
お客さんや友達から「寂しいやろ?」と訊かれますが、そうでもないのです。
娘が家を出る直前は、衝突が激しく息苦しいと感じることさえありました。それは娘も同じだったようです。
野生動物の親が、巣立ちの時に子供を噛んで巣から追い出すのは、「お前は、もう一人前だから、今日からは一人で生きて行きなさい。」などというきれいごとばかりではなく、「うるさ〜い。出て行けッ!獲っても、獲ってもお前らばっかり食べるから、全然こっちに回ってこーへんやろ!」みたいな気持ちもあるのではないでしょうか。
そんなふうに思えなければ、身を裂かれるような思いには耐えられないのではないでしょうか。
が家を出てから、私は時間に余裕が出来ました。朝はしっかり朝食を取り、少し散歩をします。閉店後、陽が沈むのを見ながらゆっくり散歩をします。幸いこの辺りは自然の残っている所がたくさんあり、少し歩けば草の匂いがして、虫の声、鳥の声を聞くことができます。
そして、店終いをしながら考えた自分のためだけの献立を作り、しっかりといただきます。
今の生活が始まって暫くは忘れ物をしているような、気の抜けた感じがしました。一ヶ月も経つと、その生活も当たり前になりました。
こんなゆったりとした穏やかな生活が、私の人生にあるなんて、思いもよりませんでした。お客さんや友達に「私、もう仕事が全部終わったような気がする。近々、お迎えくるかも?」と冗談を言ったりしています。

娘が小学生になる数日前、私はパート先で顔に油がかかり、火傷をしました。それを知った経営者は「アンタでよかったわ。嫁入り前の娘さんや、良い所の奥さんやったら大変やった。」と言い、私が要求した数百円の薬代を渋々くれました。
十数年経った今でもそのシーンは鮮明に浮かびます。何日腹を立てても、怒りはおさまりません。でも、よく考えてみるとその経営者の言ったことは、道徳的には間違っているけど、人間らしい本音かもしれません。世間の大半の考えかもしれないと思うようになりました。
確かに私には、取り柄も庇護者もありません。
私が味わったこの苦々しい思いを、娘には絶対させたくない。そう思いました。

娘は2月生まれ、小柄。小食。一人っ子のせいかおっとりして、マイペース。小学校に入学した時は、兎に角、頼りなく心配でした。ランドセルを背負って一人で立ち上がることができませんでした。

「たとえ勉強ができなくても「字」が上手なら、ちょっとは賢く見えるかも?」そう思い、「書道」を習わせました。近くに2つの書道教室がありました。1つ目の教室はたくさんの子供達が来ていて、賑やかで楽しそうでした。帰る時におやつをくれるそうです。              
もう1つの教室は、とても厳しいと評判の先生で、話声は全くしません。生徒達は、きちんと正座をして黙々と机に向かっています。                      
1つ目の教室は、満員で入れてもらうことができませんでした。娘は2つ目の教室で習うことになりました。
習字に行く日は、学校から帰って来ると「お腹が痛い。」「頭が痛い。」と言います。
私は「お腹が痛かったら、今日はご飯食べられへんやん。」「頭が痛かったら、明日は学校休みや。」と言い、渋る娘を習字に送り出します。
先生と二人きりになってしまうのが嫌で、敢えて生徒が多い日時を選んで行っていました。
三年生になったある日、娘は慌てて学校から帰って来て、大急ぎで習字に行く用意をしています。「なんでそんなに急いでるの?」と訊くと、「たくさん来はったら落ち着かへん。先生と二人が落ち着いてきれいに書けるねん。」と答えました。
娘は、一山超えたようです。

ある日、習字から帰って来た娘が、勿体振った顔でこんなことを言いました。「横五年。縦十年。点一生。この意味わかるか?」
私が「わからへん。」と答えると、娘は得意げな顔で「教えてあげるわ。横の棒を上手に書けるようになるには五年かかる。縦の棒は十年。点は一生かかる。簡単やと思うことが本当は一番難しい。ということやで。」と言いました。
先生と大人の生徒の話を聞いていたそうです。

ピアノも習いました。でも、娘は上達が遅く、同じ年の友達にドンドン引き離されていきます。辛そうな娘を見ていると、私も辛さと歯痒さがこみ上げてきます。
「なかなか上手になれへんかったら、長く習ったらいいやん。みんながやめても続けてたら、いつかみんなを追い越すやん。」
娘は高校3年生まで習いました。今も大学のクラブで弾いています。

高校の合格発表の時、私が言う「おめでとう」より先に「ママ、ありがとう」と娘は言いました。
卒業式の後、教室に戻り「子供から親に一言」という時、「ママ、ありがとう。したいこと全部させてくれた。お金無いのに、お金無いのに...」と泣き崩れた娘。教室は大爆笑でした。

娘が小さい時、私の時間や行動にたくさんの制約があることが不満でした。
何もかもが上手く進まない。そんなふうに思ったこともありました。
そんな時、読んだ小説にこんな一文がありました。
「山寺に行くには、必ず2つの道がある。一つは山の麓から寺まで、真っ直ぐに伸びる道。これを「男道」という。もう一つは山の周りを回りながら、少しずつ登って行く道。これを「女道」という。この道は、歩き易い所ばかりではなく、脚を取られる泥濘や、壊れそうな吊り橋、先細りする道幅に心細くなったり、少し進んだら横たわる大木や大きな岩に道を塞がれ、回り道を余儀なくされ、なかなか前には進まない道だけど、時には小鳥のさえずりが聞こえ、喉を潤す湧き水や、小さな可愛い花が咲いて...小さな幸せがたくさんある道。諦めずに進めば、必ず辿り着く道。振り返れば、歩いた道は全てかけがえのない思い出。」                             
この話は本当でした。
           

私は若い頃、堪え性が無く何事も長続きせず、嫌なことがあると直ぐに逃げ出していました。娘を産んでから「この娘を育てなければ。この娘が見てる。」その思いが、少しずつ私の悪いところをマシにしていったように思います。
娘に育ててもらった20年です。
この店を始めてからも何度も辞めたくなったことはありますが、何故か辞められませんでした。
今は「この店が無っかたら私は生きてる意味無いやん。」と思っています。
珈琲もパンも「もっともっと美味しくなるはず。」と、私にけしかけてきます。
終点の見えない仕事の楽しさと苦しさが、私に「逃げる」ということをさせなかったのだと思います。

18才の時、アルバイトをで貯めたお金で50ccのバイクを買いました。それまでの移動手段の自転車と違い、手首を少し回すだけでビューとスピードが出ます。
「こんなにスピードで出てるのに、全然しんどくない!」あの時の感動は、今も忘れられません。地球の裏側まで行けそうな気がしました。
娘にも、自分の力で自分の欲しいモノを手に入れる喜びを知って欲しいと思います。
与えられるのではなく、自分が働いたお金で欲しいモノを手に入れる喜び。

自分が何をしたいのかわからず、身悶えするような毎日を送っていた19才の時、飼っている犬がお産をしました。誰に教えられるのではなく、へその緒を噛み切り乳を飲ませ、子犬を育てる姿を見た時、「犬でもこれだけのことができる。人間は言葉を喋れて、字も書けて、読めて。何処にでも行ける。どんなことでもできるはず。今の私は、まだ何もしていない。」と思いました。
「そんなん犬やから当たり前やん。」と笑った友達もいたけれど、今でも苦しい時には思い出します。

数は多くないけれど良い友達に支えられ、お客さまに応援してもらい、娘の成長を励みにして、お蔭様で9周年を迎えることができました。
楽しいことばかりではありませんでした。「嫌なこと」もたくさんあったけれど、どんなことも「今に至るに必要なこと」だったのだから「それもまたヨシ!」だと思っています。
「良いこと」だけではダラケてしまいます。「嫌なこと」があったから成長できたのだと思います。
「良いこと」と「嫌なこと」を、絶妙な匙加減で私に味合わせてくれた神様に感謝しています。
これから先もどんな「嫌なこと」があっても、時間を掛けて少しずつ乗り越えて行こうと思います。
そして、いつか「最高の点」を書けるように...         2012.12
by peace3126 | 2012-12-02 11:20 | INFORMATION(伝えたいこと)

PEACE PEACE PEACE 9

前回の「8」を書き終えてから、1年半の間、全く書きたいことが出て来ませんでした。
今回「9」は、前回の「8」と少々被っているかもしれませんが、お許しください。


 数年前ある人から、こんなことを言われました。
「毎日毎日、仕事ばかりして、何処にも出かけず、趣味も無く、そんな人生の何が面白いの?」
 それを言われた時、私は何も言い返せませんでした。
 朝起きてから、夜寝るまで、私はずっと何か仕事をしています。休日も仕入れで半日が潰れ、夕方には次の日の仕込みをしなければなりません。
 働くことは好きだけど、あまりのハードさに「こんな人生...」と、何処かで思っていました。
でも、生きて行くためには、その生活を変えることはできません。

 あるお客様とこんな会話をしました。
 私:「私は井の中の蛙です。何処にも出かけず、趣味も無く、ツマラナイ奴なんです。」    お客様:「「井の中の蛙、大海を知らず。」に、続きがあるのを知ってる?」
 私:「知りません。」
お客様:「井の中の蛙、大海を知らず。されど、天の高さを知る。」
「いろんな場所に出かけたり、たくさんのコトをする人生もいいけれど、たった一つ   のコトを何処までも極める生き方も素晴らしい。という意味よ。」

 この言葉を知ってから、以前と同じ仕事をしていても、気持ちが全く違いました。
「仕事って楽しい。」と心底思えるようになりました。

 ある日、娘から「ママは、男でも女でもなくなったな。」と言われました。
 どう取ったらいいか解り辛いこの言葉は、私の目指していたモノだったのかもしれません。
「男でも、女でもなく、作る人。」
 私のことを一番知っている、一番応援してくれている娘から「ママ、一皮剥けたで。」と言われた気がしました。

 働くことしか取り柄の無い私が、働くことさえしていれば、性別、年齢、環境、職業等の違う色々な人が私に会いに、珈琲を飲みに、トーストを食べに来てくれます。
 しているコトは違っても、「もっと、もっと」という気持ちを持っている人と共有する時間は、とても刺激的で豊です。

「PEACE PEACE PEACE」は、私の生き甲斐、趣味、出会い、生活の糧、全てです。
 死ぬ直前まで、珈琲豆を煎り、珈琲を淹れ、食パンを作りたいと思います。
 もっと、もっと美味しくなるはず。
 最後の1杯が最高の珈琲で、最後の1斤が最高の食パンになるように。   
by peace3126 | 2011-07-13 14:03 | INFORMATION(伝えたいこと)

INFORMATION 8

PEACE PEACE PEACE 8

たくさんの人達の支えと応援のお蔭で、「PEACE PEACE PEACE」は、6周年を迎えることができました。
ありがとうございます。
この6年間で私が得たモノは、たくさんの人達との出会いと、自分らしい生き方です。
店を始めてからも、暫くは世間に惑わされ、落ち込んだり、悩んだりしました。そして、そこからなかなか抜け出せない時もありました。
そんな時、私の心を見透かしているように「「美味しい珈琲を出す。」それ以外の仕事は無い。」と繰り返し、言ってくれた常連のお客様がいます。確かに、私の仕事はそれ以外には無いと分かるようになりました。
小学生だった娘は、高校生になり、眼が良いのが自慢だった私は、老眼になり・・・

娘が高校に合格した時、ある方からこんな言葉を頂きました。
「合格おめでとう。高校生になったら、今までよりたくさんの人と出会うでしょう。そして、その人達は、必ずしも自分と同じ考えの人ばかりではなく、違った考えの人もいて、時には、辛い想いをする時もあるでしょう。でも、あなたが真面目に、あなたらしくしていれば、あなたの周りには、あなたに合った人が集まって来ます。
自分の鏡に、世間を映してはいけません。自分の鏡に、世間を映すから、目まぐるしく変化する世間に、惑わされ、流されたりして、いつまでも自分が定まらないのです。
自分の鏡には、自分を映しなさい。身だしなみを整え、自分らしくあるかどうかだけを、確認しなさい。」
この言葉は、娘ではなく私に向けられていたのかもしれません。

「PEACE PEACE PEACE」の営業、珈琲豆の焙煎、珈琲を淹れること、パンを作ること、これらは今の私にとって、呼吸をすることや、食事をすることと同じように、極自然な生活の一部になり、毎日がとても楽になりました。
そんなふうに考えられるようになったのは、「PEACE PEACE PEACE」を愛してくれる人達のお蔭です。
これからも、「美味しい珈琲を出す。」これしか私の仕事はありません。

どこまでも限りなく技術を磨き、来年は今年よりも、もっと多くの「いらっしゃいませ。」と「ありがとうございます。」が言えるようにしたいと思います。                      2009.12  
by peace3126 | 2009-12-20 11:24 | INFORMATION(伝えたいこと)

月光の夏


     
INFORMATION6を書き終えた日、娘が学校で「月光の夏」という映画を観て帰って来ました。この映画を私は観てはいないけれど、内容はその当時紹介した雑誌などから、知っていました。
今の娘と同じ年頃の青年達が、戦争の犠牲になり命を奪われる物語です。
娘は、喉も胸も熱くなり、涙が止まらなかったそうです。
「お国のために、命を捧げる。」なんて、今の世の中では、考えられないことです。

私の祖父は、長崎の原爆の被爆者です。当時48歳でした。
長崎駅の構内で被爆したそうです。その日、駅は人で溢れ、となりで喋る若い女学生の甲高い声がとてもうるさく感じたそうです。突然、周りが明るくなり、次に気付いた時は、周りの人は全員倒れ、駅は静まりかえっていたそうです。倒れている人達の中から、ポツリポツリと自分と同じように起き上がる人がいたそうです。

 1週間かけて祖父は、佐世保の家まで歩いてたどり着きました。道は分からないので線路に沿って歩いたそうです。途中、死にかけた血だらけの人や、体が半分溶けたような人に脚を摑まれ、その手を振り払い、踏みつけながら歩いたそうです。川には、死体がイカダのように流れていたそうです。
 暫くして、戦争は終結。日本は敗戦。祖父は命こそは失わなかったものの、仕事も健康な体も失ってしまいました。耳は、殆んど聞こえなくなったということです。

戦後、祖父は小さい漁船を買い、漁師になりました。私の記憶に残っている祖父は,それからずっと後です。
私は小学3年生くらいまで、夏休みの殆んどを、長崎の祖父の家で過ごしました。
私は、祖父と会話をした記憶がありません。耳が聞こえないし、九州弁がきついので、会話にならないと、初めから諦めていました。祖父の声を聞くのは、私に用事を言いつける時ぐらいです。恐ろしい量のマキ運び、ニワトリの世話、小豆のサヤを叩いたり、片道5キロはある町への買い物。自転車はありませんでした。

私の記憶に残っている祖父は、いつも何か仕事をしています。
晴れた日は、畑に行き、昼寝をして夜は漁に出ます。
雨の日は漁で使う網や仕掛けの手入れ。

75歳で漁船を新調した時、祖父の生きることへの、旺盛な気力を感じました。
幼かった私は、祖父は生活のために働いているのだと思っていました。でも、今考えると被爆者として受け取る年金はきっと生活するのに十分あった筈です。
祖父は、85歳で亡くなる1週間前まで、漁をしていました。

「祖父は何のために働いていたのだろう?」そんなことをよく考えた時期がありました。
自営業の私に、定年ありません。1年ほど前まで「いつまで働かないとアカンのかなぁ~」と、よく思いました。でも最近「死ぬまで働けたらいいのになぁ~」と思うようになりました。
祖父も、そう思っていたのかもしれません。

死の淵を彷徨った祖父は、生きていること、体が動くことの喜びを働くことから感じていたのだと思います。

戦争で大きく人生を狂わされた祖父。自分で築いた会社を失い、被爆し。普通なら、自暴自棄になり、だらしなく、時間つぶしの余生で終わっても仕方がないと思います。でも、私の記憶に残っている祖父は、威厳と活気に満ち溢れています。
「死ぬまで、元気で働く。」そんな、人生が良いなぁ。と最近思うようになりました。

 祖父のことを、思い出す時、不思議なことがあります。祖母も母も「じぃちゃんは、耳が聞こえないから。」といつも言っていたので、そうだと思い込んでいました。でも、私が母に激しく口答えをした時、顔が腫れ上がるほど、叩かれたことがあります。
 祖父が漁に行くため家を出た後、タバコを忘れているのに気づき、必死で追いかけ、遠くに見える祖父の後ろ姿に「じぃちゃん、タバコ。」と叫んだ時、振り向き、私が追いつくのを待っていました。
 祖父の耳は、本当は聞こえていたのかもしれません。
 


私の子供の頃の写真に、オニユリの柄の浴衣をているものがあります。その可愛くない浴衣は、「オニユリのように、何処にでも根を張り、強くなれ。」と祖父が、私のために買って来たそうです。
祖父は、今の私をどう見ているでしょう?
by peace3126 | 2009-06-20 22:48 | INFORMATION(伝えたいこと)

ピースというバラがあるのをご存知ですか?

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第二次世界大戦末期の1945年、米国サンフランシスコ。国連発足に向け会議場に集まった50ヶ国の政府代表達は、輝くようなバラたちに迎えられた。
直径15センチ、淡いピンクが混じった「巨大輪」。加えて、戦争終結の願いを込めたネーミング。20世紀を代表する名花はこうして国際舞台に登場し、世界のベストセラーローズにのぼり詰める。

「ピース」・・・誰が作り、名づけたのでしょうか?
「ピース」はサンフランシスコ会議の6年前、フランスのリヨンで誕生しました。ナチスドイツがフランスに攻め入り、第二次世界大戦が始まった年です。
育種者はフランシス・メイアン(当時27歳  1912~1958)。自信作だったのでしょう。当時の多くの育種者と同じように、母親に捧げ「マダム・アントワーヌ・メイアン」と名づけて、戦時下売り出しました。
三年後の秋、ドイツ軍が迫る中、「米国にも広めたい。」と彼は芽接用の小枝数本を友人の販売業者ロバート・バイル氏に送りました。郵便網は寸断されていたので、帰国する知り合いの米国領事に託しました。ドイツによる南フランス占領の前日のことです。
なんとか米国に届いた小枝はバイル氏によって増やされ、1945年4月末カリフォルニア州バサデナでの「太平洋バラ協会展」で新品種として登場。話題をさらいます。ちょうどその時、会場に「ベルリン陥落。休戦へ。」のニュースが届きました。「ピース」・・・それがこのバラの運命だったかのように名前が決まりました。

「ピース」はその後も1951年のサンフランシスコ対日講和条約調印の席上に飾るなど、歴史的場面に立会い、バラそのものに「平和の象徴」のイメージを植えつけました。

「ピース」には第一の名「マダム・アントワーム・メイアン」の他にも、二つの名前があります。
ドイツでは「グロリア・ディ」(栄光の賛歌)。イタリアでは「ジョイア」(歓喜)。
敗戦国では、勝戦国が付けた名前では売りにくいと、現地の販売会社が別の名を考えたそうです。


「ピース」と名づけたこの花が人々の心を動かし、世界にかつて無い平和がもたらされますように
                                            米国バラ協会


巨大輪の始祖である「ピース」は、これまでに世界中で5000万本以上が販売されました。交配種としても優秀で、世界中の作出家たちが品種改良に利用し、その子孫は「ピースファミリー」と呼ばれる名花群を形成しています。
by peace3126 | 2009-06-07 08:38 | INFORMATION(伝えたいこと)

INFORMATION 5

PEACE PEACE PEACE INFORMATION
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 「おかげさまで5周年」・・・おかげさまで5周年を迎えることができました。
「あっ」と言う間の5年間でした。何をやっても長続きした例の無い私が5年も、店を続けられたのは、お客様、友達、娘のおかげです。
何度も逃げ出したくなったことがあります。その度に、「店をやめたら、この人(お客様)に会えなくなる。」と思い、私が店を持てたことを喜んでくれた友達に、また心配をかけてしまうと思いました。小学5年生という難しい時期に、慣れた生活環境を捨て、不安一杯で、私に連れられて、ここに引越して来た娘のために・・・私一人の気持ちだけでは、続けられなかったと思います。

私は、娘が小さい頃、自分の時間や、やりたいことに制約があることに、とてもストレスを感じていました。今から思うと、子育てを楽しめなかったことは、とても勿体ないことです。その頃、私達は休日になるとよく二月堂に出かけました。季節・時間・天候を問わず、二月堂からの景観はすばらしいのです。

娘が小学校入学を控えた春、満開の桜を期待して、二月堂に行きました。奈良公園から二月堂まで、どの桜も満開でした。帰り道、娘がこんなことを言いました。
 娘 「桜の花は、きれいやなぁ」
 私 「花は、どの花もみんなきれいで。」
 娘 「ちがう、桜の花は他の花よりずっときれいや。なんでやろ?」
  私 「・・・・・桜は、花が散った後、暑いのを我慢して、寒いのも我慢して、
いっぱい我慢するから、きれいな花を咲かせることができるんとちがうかなぁ・・・」
  娘 「そしたら、ママといしょやなぁ。このちゃん(娘)早く大きくなるから、もうちょっと我慢してな。」
 「はっ」としました。一番我慢していたのは娘だったのです。

 今年の春、娘の「15の春」は「桜咲く」・・・まさに満開でした。
 私は、幼かった娘の我慢と期待に応えた花を、いつになったら咲かせることができるでしょうか。
by peace3126 | 2008-12-05 22:44 | INFORMATION(伝えたいこと)

INFORMATION 4

ピース ピース ピース                   
                                 INFORMATION
                              
 
お菓子作りのきっかけ・・・小学校6年生の時、友達の誕生日会に呼んでもらいました。「お母ちゃんがケーキを作るから来てや。」と...家でケーキを作ることができるなんて、その頃の私には想像のできないことでした。ケーキ店のショーケースに並ぶ[モンブラン]を見て、「やきそばの載ったケーキなんて、誰が買うんやろ?」と小学低学年まで思っていたぐらい、ケーキなどと言うものには、縁の無い環境でした。
いざ、誕生日会へ...大きなテーブルにご馳走がびっしりと並んでいました。しかし、一番のお目当てのケーキは、なんとも地味なマーブルケーキだったのです。天まで届くようなクリームの山を想像していた私は、ガッカリ...しかし、食べてみるとその味は、例えようが無い美味しさだったのです。
その後もその友達の家には、度々遊びに行き、おばちゃんの手料理をご馳走になりました。「これさえあれば、なんでもできるのよ。鶏の脚も焼けるのよ。」おばちゃんは、オーブンを指差してそう言いました。まさに、魔法の扉でした。「私も欲しい。」そう思いながら、家にあるオーブントースターで、ミックス粉を使ってクッキーを焼いたりしていました。
高校生になり、アルバイトして念願のガスオーブンを買いました。今から25年程前のことです。(当時9万円)暫くは熱中したものの、冷めたり、離れたりしながら、卒業後はお菓子とは無縁の仕事に就きました。
子供を持ち、日々追い立てられるような生活を送りながらも、お菓子とパンを作ることが、徐々に私の生活に組み込まれていきました。
数年前、定年間近のおばちゃんから「定年したら、パン作りを教えて欲しいのよ。」と、言われました。私が、おばちゃんに教えるなんて...この人も、私の「いつまで経っても追いつけない人」です。
お子様連れのお客さまから、「この子、ここのパンが大好きなんですよ。」とか、言っていただいた時は、最高にうれしいです。私が、あの日のマーブルケーキから受けた衝撃には、程遠いだろうけど...


  
by peace3126 | 2008-08-15 16:33 | INFORMATION(伝えたいこと)

INFORMATION 3

ピース ピース ピース                   
                               INFORMATION
                              

私に、コーヒー豆の焙煎を教えてくれた人...当時、おじさんは70歳でした。私は、「70歳まで現役で働くなんてすごいなぁ…」と思っていました。でも、おじさんは、80歳を過ぎた今も現役で毎日働いています。
長身で足が長く、ハンチング帽を被り、赤のチェックのシャツとチノパン、パイプを銜え、ロッキングチェアーに座り...なんとも絵になるのです。
私は、この店を始めてもうすぐ4年ですが、毎日店を開けることのが、これほど大変だとは思いませんでした。肉体的な面、精神的な面...暇な日が続いた日は、店を開けることが怖くなります。おじさんはもう50年間も店を開け続けています。おじさんが、コーヒー豆の焙煎を始めた頃は今のように、コーヒーを飲む習慣はあまりなかった頃です。「コーヒーよりうどんの方がいい。」とよく言われたそうです。その頃から50年もおじさんは毎日店を開け続けています。「すごい」の一言に尽きます。
毎日店を開けることもさる事ながら、50年間も同じ仕事に情熱を持ち続けることもすごい事です。ある時、おじさんが大声で「こ、こ、こ、こ、これ見てみっ!」と、興奮しながら私を呼ぶのです。(おじさんは、興奮すると吃音気味になるのです。)おじさんが握った掌を開くとその中にはコーヒー豆があったのですが、右手と左手の豆が微妙に違うのです。「こ、こ、こっちの方が膨らみがいいやろ!」 おじさんは、40年経ってもより良く豆を煎る方法を模索していました。私は、40年、50年と毎日店を開け続け、情熱を持ち続けることができるだろうか?...ついつい惰性になりがちな時があります。
私は最近、焙煎をしながら「こんな時、おじさんはどうするやろ?」「なんで、もっとちゃんと教えてもらっとかなかったんやろ?」と思うことがよくあります。でも、あの頃きいてもきっと解らなかったのだと思います。今、ほんの少しだけおじさんに近づけたから、いろんなことが解るようになり、焙煎の難しさを感じているのだと思います。
いつまでも元気で、焙煎をして、店を開け続けて欲しい。いつまで経っても追いつけない人がいるから、私も毎日店を開けることができるのです。 
                       
  
by peace3126 | 2008-08-15 16:31 | INFORMATION(伝えたいこと)