『PEACE PEACE PEACE6』を書き終えた日、娘が学校で「月光の夏」という映画を観て帰って来ました。この映画を私は観ていませんが、内容は紹介した雑誌などから知っていました。
娘と同じ年頃の青年達が、戦争の犠牲になり命を奪われる物語です。娘は喉も胸も熱くなり、涙が止まらなかったそうです。「お国のために命を捧げる。」なんて、今の世の中では考えられないことです。
祖父の思い出
私の祖父は長崎原爆の被爆者です(当時46才)。祖父は長崎県佐世保市に住んでいましたので、奈良に住んでいた私が祖父に会うのは、冬休み夏休み等の帰省の時だけでした。祖父については母から「怖い人」と叩き込まれていましたし、被爆により殆どの聴力を失っていましたので、私が必要なこと以外を話しかけることはありませんでした。祖父もまた、私に対して話し掛けることは滅多にありませんでした。祖父の声を聞くのは会話というより、声を発するという表現が合っているように思います。ですから、これから私が書くことは、母から聞いたこと、また私の子供の頃の断片的な記憶が、歳を重ねて行く中で形になったことです。
私の夏休みの帰省に合わせて、祖父は飼っているチャボの卵を取らずに親鳥に抱かせ、雛を私に見せようと計画を立ててくれるのですが、そのタイミングが一度として合った試しがなく、私はいつも中雛となった雛に激しく攻撃されるのです。そのうち小屋が手狭になり、若鶏用に新しい小屋を作るのですが、大雑把な性格と不器用さのせいで、新しい小屋に移した途端に若鶏たちは柵の間をすり抜け、裏山へと逃げて行くのでした。
私は、朝起きて山を背に海を眺めながら、外にある水道で洗面をします。内海に漁船が入って来るのを見つけると船着き場までの一本道を走ります。祖父は一斗缶を半分に切ったバケツを私に手渡します。その中には市場に卸さなかった小さい魚が入っているのです。そして、それがその日の御飯のおかずになるのです。
祖父は子供の頃、小学校に行かせてもらうことができず、家の手伝いの空いた時間を見つけて、墓地に行き墓石に字を書き、字を覚えたそうです。それでも、小学6年生になると下級生に授業をするまでになっていたそうです。また大型船舶運転士、機関士の免許を持っていたこともあり、祖父は一代で海運会社を興しました。母から子供の頃、家の中は常に20人近い従業員が寝泊まりしていたと聞かされたことがあります。祖父は戦争には行かず、会社の船を物納していました。長崎県戦時船舶徴用船という記録に今もその名前が記録されています。 藤田峯太郎11隻53トン。
祖父は仕事で下関にいるとき、広島に原爆が投下され、次は長崎に投下されるという噂を聞き、家族の住む長崎県佐世保市に戻る途中、長崎駅の構内で被爆しました。その日、駅は人で溢れ、隣で喋る女学生の甲高い声がとてもうるさく感じたそうです。その時は突然周りが明るくなり、咄嗟に目の前にあった机の下に潜ったそうです。次に気付いた時は、周りの人は全員倒れ、駅は静まり返っていて、倒れている人達の中から、ポツポツと自分と同じように起き上がる人がいたそうです。
その後は、佐世保の自宅まで歩いて1週間かかり帰ったそうです。道は分からないので線路に沿って歩いたそうです。途中、死にかけた血だらけの人や、体が半分溶けたような人に脚を掴まれ、その手を振り払い、踏みつけながら歩いたそうです。川には死体が筏のように流れていたそうです。血だらけになり自宅にたどり着いた祖父は、1週間近く意識が無く高熱を出し眠り続けたそうです。離れに隔離し、祖父の寝る布団の周りに畳みを立てて囲み、祖母だけがその部屋に出入りし、水を飲ませたそうです。その時、祖母は祖父の髪を引っ張り、抜けるかどうかを確かめたそうです。髪が抜けると死んでしまうという噂が流れていたからです。
暫くして、戦争は終結。日本は敗戦。祖父は命こそは失わなかったものの、仕事も健康な体も失ってしまいました。でも家族のために働かなくてはなりません。祖父は漁師になりました。小学生だった私の母を連れ、漁の網、仕掛けの作り方を習いに行ったそうです。自分で会社を興し、たくさんの人を使っていた祖父が人に頭を下げ、教えを請うのはどんなに辛かっただろうかと思います。
私の記憶に残っている祖父はそれからずっと後のことです。祖父はいつも仕事をしていました。晴れた日は畑に行き昼寝をして、夜は漁に出ます。雨の日は漁で使う網や仕掛けの手入れ。大きなヤツデのような手を今も覚えています。
祖父は85才で亡くなる1週間前まで漁をしていました。正月の三ヶ日が過ぎるのを待ち時化の海に出たのです。そして、座礁し意識を失い、救助され、病院に搬送され、意識が戻らないまま、1月11日に亡くなりました。確か、前年も真冬に漁に出て、同じような目に遭い入院したと聞いた覚えがあります。どうして祖父は真冬の時化の海に出たのだろう?大人になってから正月の三ヶ日が過ぎた頃になると、いつもそれを考えてきました。
私は50才を過ぎ、若い頃からの無理が祟り、突き放すことのできない病を持つ身になりました。自営業で拘束時間が長く、その割りには実入りが少ないのです。このくらいの収入なら他に仕事はあると思うのです。でも、辞められないのです。どんなにしんどくても、労力と収入が見合わなくても、パンを作る、珈琲豆を煎る、珈琲を淹れるということを辞められないのです。自分のイメージ通りのパンができた時、お客様から「美味しい。」という一言を貰った時の全身が熱くなるような痺れ、心のときめきが私をこの仕事に縛り付け離さないのです。
今年は例年より1日早く新年は4日から営業を開始しました。有り難いことにたくさんのお客様に来ていただきました。仕事の合間に祖父のことを思い出しました。「今日はじいちゃんが海に出た日。」
何となく祖父の気持ちが分かったような気がしました。祖父は漁がしたかったのです。楽しみだったのです。自分の読み当たるかどうか?自分のイメージ通りの漁ができるかどうか?きっと頭の中はそれしか無かったのです。
戦争によって人生を狂わされた祖父。自分で築いた会社と健康な体を失った祖父。自暴自棄になり、だらしなく時間潰しの人生で終わっても仕方ないと思います。でも、私の記憶に残っている祖父は、威厳と活気に満ち溢れています。75才で漁船を新調した時、生きることへの旺盛な気力を感じました。祖父は日々を、そして人生を楽しんでいたのです。
祖父のことを思い出す時、不思議なコトがあります。祖母も母も「じいちゃんは、耳が聞こえないから。」といつも言っていたので、そうだと思い込んでいました。でも、私が母に激しく口答えをした時、顔が腫れ上がるほど叩かれたことがあります。祖父が漁に行くために家を出た後、タバコを忘れているのに気付き必死で追い掛け、遠くに見える祖父の後姿に「じいちゃん、タバコ。」と叫んだ時、振り向き私が追い付くのを待っていました。祖父の耳は、本当は聞こえていたのかもしれません。
私の子供の頃の写真に、オニユリの柄の浴衣を着て写っているものがあります。その可愛くない浴衣は、「オニユリのように、何処にでも根を張り、強くなれ。」と祖父が私のために買ってきたそうです。
祖父は今の私をどのように見ているでしょうか。